闘病記 (医師が病に伏して思うこと) 第4話
闘病記(医者が病に伏して思うこと)
第4話 倦怠感
いつきクリニック一宮 松下豊顯
今回は私を悩ませ続けた倦怠感を掘り下げてみたい。
最初は疲労の蓄積かと思っていたが、一日毎に症状が悪化する、そのスピードに驚かされた。前日に頑張って出来たことが翌日には出来ないことの繰り返し。僅か一週間で起きて活動することが困難な状態に至った。今まで自分が倦怠感と感じていたものとは別次元の状態であると思った。
入院後も倦怠感は進行し続け、病室内のトイレに何とか自力で移動する以外は終日病床に伏せる状態となった。トイレも立って用を足すことができず、検査の移動は車いすのお世話になったが、乗り降りも辛く感じた。
最終的にあらゆる重力に逆らう動きが辛くなり、病床で寝返りをうつことさえ困難と感じた。終日病床の天井を眺めながら、この絶望的な倦怠感とはいったい何者なのか考えながら過ごす日々が続いた。
この倦怠感をどのように表現すれば人に伝わるのであろうか。
倦怠感を別の表現に置き換えたらどうなるかを最初に考えた。「(身体の)だるさ」、「疲労感」、「脱力感」、「意欲低下」、「衰弱」等々いくつかの単語が頭に浮かんだが、そのどれもが今の状態を表す言葉ではないと思った。
しばしば、医療の現場では「倦怠感」と並列に「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」などの用語が使用される。改めて「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」の用語を考えた時、これらは主に筋肉の疲労や障害、筋力低下に由来する表現として適しているように思えた。
化学療法を何回か経験した後、抗腫瘍薬投与後の身体症状を表現するのに最も適した表現が「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」であると感じた。
私の倦怠感も病初期の頃であれば、このような表現が当てはまったかもしれないが、最終的に絶望的な倦怠感と自ら言わざるを得ない状態は「だるさ」、「疲労感」、「脱力感」では決して置き換えることができないと思った。
今回の極限状態を一言で言い表すのに「倦怠感」以外に同義語が思い浮かばない。
では絶望的な倦怠感と真逆の状態はどのように表現されるのか。そして、その表現を否定することで「倦怠感」という言葉を新たに定義しようと考えた。
今の自分の状態と正反対の状態を思い浮かべた時、「希望」、「活力」、「生命力」、「気力」、「活動」、「躍動」、「高揚感」、「充実感」などの言葉が次から次へと思い浮かんだ。すべて今の自分から失われたものだと感じた。同時に早くもう一度このような状態に戻りたいと思った。そして自分なりに創造した倦怠感の定義。「倦怠感」とは「生きる希望をなくすこと」であった。
まさに今の自分を表現するのにピッタリの定義だと自虐的に納得した。生きる希望をなくし、ただ病床で天井を眺めるのみ。
「生きる希望をなくすこと」といえば、「自死」「自殺企図」などを連想する人がいるかもしれないが、全然違う。自死を考えるには大きなエネルギー(活力)が必要だ。しかも負のエネルギーである。実行するにはさらに大きな負のエネルギーがないと無理だ。絶望的な倦怠感は正も負も、エネルギーが全くない状態に近く、「自死」を考える気力さえない状態と言える。
ついでに言えば、「自分の意志や力で誕生したわけではない命は、自分の意志や力で消滅させてはならない」と私は考えている。
改めて「倦怠感」という言葉を深く考えてみた。私が病に伏した最大の症状であり、最終的に自ら「絶望的な倦怠感」と表現せざるを得ない状況に陥った時、「生きる希望をなくしかけていた」のかもしれない。治療により劇的に倦怠感が消えていく身体の変化も体験し、「倦怠感」と表現せざるを得ないものの実態は何であるのか不思議な興味を抱いた。
医学的には増殖したリンパ腫細胞から放出される多量のサイトカイン(主に免疫細胞から分泌され、生理活性を有する蛋白質)によって引き起こされる身体の反応と考えられるが、今まで自分が日常臨床で使用していた「倦怠感」の意味を超えて深く考える機会でもあった。
強調文